since 2010 7.4 by TPM.CO / update 2010 11.26 / go toトップページ




日頃の行動をメモ。消しゴムで消して作品へと昇華する前の、日々の下書き。
This is my dairy memo. These will be a work after brush up process. .




    2010.JULY

7/2 NTV 紅の豚

 「飛ばねえ豚はただの豚だ」




7/5 実用化

先週から取り組んでいる、t,tt(n)-練だったが、セッションでスルスルッと適用できたので実用化したことが分かった。

非常に面白いのだが、音源でニュアンスを掴んでから叩くのと、頭でパターンを意識して叩くのではまるで違う。
なんというか、スポッと収まるように、手がt,tt(n)-と動く。手動でやっていると「無理…」と感じる速度がなんの問題もなくできるのだ。

当初はまるで無理と思った音源の速度に、問題なくついていけるのは、運動というものが意識とは別の制御下にあることを表している。

「動かす」と「動く」は、決定的に異なるということだ。



7/6 新時代への旧世代の対応

確率論、米コーネル大、リチャードデュレット教授の記事をみていた。

(図A)
これは感染症がどのように波及していくか、というシミュレーションの説明だ。

ゲーム的に言うならば、ライフゲームと捉えると分かりやすい。

私はこういう他分野の図とかを眺めるのが好きだが、それは、ゲーム的でなにかわくわくするからである。ただそれだけなことも多いが。


続いて、次の図が添えられていた。

(図B)
感染が、ネットワーク経由の場合は、という説明である。

他の人(点が人を示す)とのつながりが多い人を「ハブ」と呼び、ハブがあるネットワークでは、感染症が広がりやすくまた消滅しにくい、とあった。

さきほどの「平面」と、この「ネットワーク」。この決定的な違いを眺めていて、「あっ!」と気づいたことがある。


---
いつの時代も、年寄りは世をはかなみ、若い世代は新しい時代を切り開いていく。
しかし、インターネット時代で根本的に異なる価値とは、「ネットワークである」ということに尽きる。

インターネットが普及する前の時代は、図Aのように、すべて隣り合わせ、での関係性だった。

隣会うことで生まれる関係性と化学変化・・
この図は、まさに
従来の現実の社会の関係性を示しているのだ。

そしてこれらは物理的な関係でもある。これは、古い時代から変わらない関係性だった。国境、移動、店舗、出会い、人間関係・・・、あらゆる問題も変化などがすべて隣り合わせの接点における現象だった。ニューロン同士が直接接続していないように、こういった関係間の接点にバリアーやフィルターがありノウハウが集約され、それらは長い時間をかけて淘汰され構築され蓄積されてきた処世術であった。

---
ところがインターネットになったとたん、
図Bのような、ネットワークの関係性になった。これはこれまでの歴史にない関係性と環境である。

ネットワークになると、隣り合わせという関係が存在しなくなる。繋がっている人同士のネットワークという形になる。これは、一つリンクを知ると、関連するネットワーク情報や人脈がドドドッと開くことを意味する。
知らないとネットワークが世の中に溢れているのにもかかわらず孤立することになる。初期nodeのないwinnyみたいなものだ。アキバの不幸な事件を思い出す。

つまり、
ネットワーク関係性の時代には、
それまでの、
隣り合わせという環境、で淘汰し培われてきた文化やノウハウが通用しない、
という恐ろしい事実を意味することになる。

防犯も、防衛も、人と人との間の処世術、あらゆる人間の文化がリセットされる。
だからこそ、インターネットを手にした76世代が台頭したと言える。未開拓だからであり、その荒野に抵抗がない若さこそが武器となったからである。そして古い世代はそれを本能的に恐れ、封じこめようと試みたし試みている。

---
実はこのページでしばしば記述している事柄は、私と同じような古い世代への警告や対処情報提供でもある。
もちろん明るい展望なりがないと人はくじけるものだし、悪い面ばかり見ることだけが得策ではない。

しかし、私の直感ではもはや危険水域を越えている。みえないだけにやっかいなのだ。だからみえるようにする。

隣り合わせ処世術=古い世代のやり方、をネットワークに対して行使すると、当然うまくいくわけがない。あるはずのものがなく、裸のままジャングルに突入だ。隣り合わせ処世術自体が、長い年月をかけて淘汰されてきたソフトウエアだから、これからはネットワーク環境での処世術を、これまた長い時間をかけて錯誤し淘汰して構築していくのだろうと思う。

食文化と同じだ。
試しに食べて食べられるものが残ってきた。その歴史には、毒キノコを食べて死んだり適切な調理を施せずフグで死んだり、多くの犠牲の上に成り立っている。
今、新しい星に降り立った。みたことのない植物や動物がいる。どれをどう処理し食べるのか。そういう状態である。同じ模様なら同じ傾向だろうか。

---
私らが生きている時代にいきなり処世術は生まれないだろう。
しかし淘汰の踏み台になるのはまっぴらである。私らにもやりたいことがある。

だからこそ、
隣り合わせ文化とネットワークの違いを知り、それによってどういう誤作動や行動が生まれているのかを見極めた上で対処していかないと、はかなむしかなくなるように思う。それは非常につまらないことだ。




7/7 夜間回転

蒸し暑い夜は寝られず結局寝るのが朝方になるなら、温度が下がる朝方まで仕事すりゃいいじゃん!ということで(私はこういうしんどいことでも、発想の新しさでやれてしまう性質がある)、このところずっと夜間作業である。仕事して練習して帰って朝まで、という過酷な感じだが、なかなかいい感じに進行してて面白い。

---
ゲーム制作には、ファーストマジック、というものが2回必要で、

まず、アイディア段階で、「うわー超面白そーやってみてえ!」と思えるマジックが起こる。

これは、当初の直感をあれこれ整理しているうちに、ぽこん、と出来てしまう、まさにマジックである。

そして、もう一つは、

アイディアを実装してみて動かしてみたとき、 笑っちゃうくらい面白くていじりつづける、というマジックである。


ゲーム制作はしんどい。プログラムも、アイディアを具現化するのもしんどい。だが、そのしんどさを吹き飛ばすマジックがあれば、その後の推進力になる。アイディアにマジックが起これば、プログラム実装に入れるし、試作の挙動にマジックが起きれば、その後完成までの推進力になるし、そこから次なるマジックも呼べる。

しかし、言うまでもないが、マジックというのは、狙って生まれるものではない。やるべきことを積み立てた結果咲くものである。そういう意味では、農業と似ている。肥料、日々の世話、やるべき下準備をしておけば、大きい果実を実らせてくれることになるが、大きい果実か、望む形かは、わからない。ただ、やるべきをやらなければ、しょっぼい果実しか実らないことだけは確か。日頃ろくに食わせないでオリンピックスターになりスーパープレイ?できるわけがない。日々の積み重ねである。

---
では下準備とは何をしたらいいのか。

芸術もそうだが、
ペインティング技術とか模写の上手さとかそういう部分ではない。

現実の人生で経験した、喜び、悲しみ、楽しみ、快感、そういったものを、絵とか音楽とか、そういうジャンルの手法で再構築しただけにすぎない。つまり、既存の表現や技術を組み合わせている限りでは、その技術のもつ記憶にフリーライドしているに過ぎないのだ。創作ではなく追体験、つまり消費活動である。昨今のゲームの多くは、過去の面白いゲームのパーツを組み合わせているだけに見える。組み合わせていれば、消費されていく。

ゲーム以外で経験した感動、刺激、そういったものを、ゲームというフォーマットで再構築する、それがゲームにおける表現である。80年代のゲームは、ゲーム作り手が大抵大人だったし、ゲームで育ったわけではなかったので、実はゲームに人生が込められていたように思う。

---
ちなみに私の下準備は、日常的である。

私は気になる本は図書館を通して目を通すし、ジュンク堂に定期的に眺めにいく。先人が人生を変えたという一冊の本などはジャンルは違えど読んでみる。体に入ってこない音楽は延々流して脳に回路を掘る(もちろんインストールするのだからルーツを厳選する)気になるゲームは手に入れて動かしてみる。おもちゃも同様。セッションはプロの演奏を浴びにいくためだ(自分の演奏を披露するためではない)

ネット時代でデジタル時代だが、私はなるべくアナログ経路を残すようにしている。情報量が格段に多いからで、情報量が多いと脳への蓄積の際に決定的に格納のされ方が変わるからである。5感に関係する刺激を得るチャンネルを持つこと、pcにすべて依存しないこと。pcは挙動自体もけっこうホビーなのである※1。

一方で、
「消費」に該当するものは、極力避ける。もしくは利毒をわかって選択する。
何が消費に該当するのか、消費がどういう影響があるのか、ということについては、非常に長い説明が必要なのでいずれ記述する。
端的に言えば消費とは奴隷化である。檻に入って食事を待ち、マズイと文句を言う姿勢のことである。檻から出たら自分で食事を探さなければならない。檻に入れば多少不満でも食うには困らない。問題なのはこの檻が見えないことなのである。



7/16 予定崩壊と想定外利益

ようやく形が見えてきた。理由はわからないが、サルのように触ってしまい、人に見せても面白がられる。非常に新しい発想だろうし、ある意味頭おかしいと言ってもいい。

画像はかなり古いトーンなのだがそういう指摘はない。むしろカワイイといわれた。挙動が飛んでるのでそこに目がいかないらしい。夜通し試していてようやく方向が見えてきた。ただ、その方向は私が当初予感したトーンそのものであり、そこは予想内。ただそれが面白いのが予想外。そしてそのトーンにおけるバリエーションを持たせることができることも朝方見えた。

だが、そのトーンからあれこれ考えて、まあベーシックこれくらいは「装飾として」問題なく実装できるだろう、それにバリエーションを加えればあれもできるしこれもできるだろう、と計画していた部分が圧倒的に当初のトーンをぶち壊す仕様となることが動かしてみてわかり、取りやめることにした。

なぜダメなのかも理由はわかったし、それによって元々のトーンのよさも再認識することができた。
だが、
取りやめるということは、計画していた様々なバリエーションが崩壊する、ということを意味した。発注ができない。さらに、元々のトーンにはゲーム性、というものがない。自分でさえ、すぐゲーム性なりルールなりをそこに組み入れようとしてしまっていることに気付いた。しかもそのルールは過去からの派生であることがほとんどだったから、そういう意味ではそれが崩壊してよかったのかもしれないが。

こういう流れの中で見渡してみれば、昨今このところのゲームというものが「ある目的をもたせ、その方向に導いていく」という非常に恣意性の高いものになってきてしまったのではないか、とまで思った。とりあえずビール!みたいに、まずルール、世界観、キャラ設定。
先日モモを読み今ゲド戦記を読んでいるが、児童文学者の人生における悟りみたいなものをすごく感じるが、魔法や世界、ファンタジーなどは何かを語るために必要な形式でしかないことがわかる。真の名前、力、経験、学ぶことと心。今ゲームを作っている人たちは、そういう悟りや人生における様々な経験や子供に語るべきことをゲームに込めているのだろうか※2。ゲームを終えて手に残る何か。つまり導くべき先はあるのだろうか、と思った。

まあもともと、子供の遊びには意味はない。なにかしら積み上げて完成してもすぐ壊してしまう。完成させることに目的がないからだし、そもそも遊びとはそういうものだ。

---
だいぶ遅れたが平行してコミケに向けての作業も開始している。Cに慣れて来るとアセンブラが結構メンドイ。ただこのめんどさはpedによる画面の狭さであって、秀丸(HP)で外部で組めば見渡せるので苦労しないが、やはりコーディングの際にテキストにメモや図を横にちょちょっと書けないのは不便でならない。決まったfontサイズでコメントアウトで書くのは冗長だったり足りなかったりする。似たようなことは秀丸がmacにあればなーと思うことにも見られる。Xcodeはオートfixなどが便利だが結局Xcodeの開発の人が便利でしょ?と頑張ってつけたものばかりで結構肝心なところが非常に不便だったりするのだ。秀丸のような画面上下2分割があれば、今組んでいる場所を保持しながら、他を参照できる※3。ちなみに秀丸に欲しいのはアナログマップとセルである。もちろんこの機能と設計思想は、現在どのテキストエディタにもない。私の頭の中にあることだが、いずれ試作を作って申し出たりしたいと数年来暖めている。




7/19 すべての道はローマへ

いろいろ平行して進めているが、ふと我に帰るとちゃんと目的に向かって進んでいることがわかる。
偉いな!俺(笑

---
試作をチェックしてもらうと案の定サルのようにいじってもらえた(笑)
またやりこみ耐性をこれにどう組み込むか、などの話もいろいろできた。

このところ気付いたことだが、

ゲームのルールとは、
何かをして、何かが起こる、であるが、
これを
定めたとたん、
それは
義務になってしまう、ということだ。

よってゲームデザインをする、つまりユーザーのアクションで何かが起こることを明示する場合は、その起こることに快感がある、ということが交換条件になる。つまりゲームルールがあることによりもう先に何が起こるか分ってしまっているつまらなさを、その起こること自体に満足してもらうことで帳消して凌駕するのがゲームだと。

うたうたウ〜でも最終的に一本道にした。その代わり、一本道でも面白くすることは心掛けた。それは交換条件だった。

ふと思うに、昨今のゲームは、どうルールを作るかに腐心してきたわけです。戦闘システムがどうだ、アイテムがどうだ。しかし一方でその交換条件がおろそかになっていたのではなかったか、とも思いました。光あるところに影がある。花を咲かす根があるんじゃないかと。

---
さて
困ったことにこの試作にはまだルールがない。そしてそのルールがないことが面白いんじゃないか、という困った状態でもある。養老さんも言われているとおり、可能性(決まっていないこと)とは財産だなあと思う。もちろんルールがないと軸がないので、いずれ飽きてしまう。進むべき方向、集まるべき中心がないからで、だからいずれはルールを足さなくてはいけないが、ルールがない面白さをルールを足しても残るようにするには?という禅問答な試行錯誤、これこそがパズル、ゲーム制作の豊かな時間、面白さだ。パズルが解けたとき、ゲームが完成するのだ。




7/22 消費と複合問題

消費との決別を段階を踏んで行っていて。

もう10年以上単位で体に染み付いた消費習慣というのは脳に刻まれているのに等しく、
しかし、すでに脳が創作に切り替わりつつあるため、多少の消費ではもはや満足できなくなってきていて、
現状つらいのは、ちょっと気を抜きたいときにそれを満たす消費物がないことだ。

ずっと気付かなかったのだが、
本当はすごくモノを作りたいわけだが、BASIC時代には実はI/Oまわりはハードウエアだったがそれがwindows以降デバイスドライバなどのソフトウエアになった。つまり、BASIC時代のデバイスとはアナログデバイスとの付き合いだったわけで、それが失われそれでもそれが世の中の主流になり現代に至る。
その気持ちをずっと消費物が埋めてきていたのではないか、と疑念を持ち検証および切替えや停止を行っているのがこのところだ。アナログかハードウエアか。それを見極める。
---
iPhoneにはガベージコレクションがないため、確保したメモリを自前でfreeしなければならないが、他から参照されたりなんだりで本当に使われてないかどうかを検証するために本一冊かけるほどだ。
しかし、元々に返れば、
例えば、初心者が皆困るC言語のポインタ、これはBASIC時代であれば単にメモリがあり、そこに自前でレジスタを使ってアクセスした。そのレジスタもハードウエアだ。敵のテーブルをメモリ上にどう確保するか、それをどう使うかは自前で設計した。なのでメモリリーク自体が起こりようがなかったわけだ。ポインタも、それらの敵テーブルを示す変数に過ぎず、つまり、C言語とはマシン語をより便利に使うためのものと見るとポインタも非常に理解しやすくなるが、単にポインタから入るとワケがわからない。

健康のためにサプリメントを飲む。当然化学薬品なので、体内で他と結合したりして影響が出る(例えばビタミンC(アスコルビン酸K)は摂取しすぎるとカルシウムと結合し体外に排出されてしまう)。その影響を防ぐために何かをまた摂取する。複合で何かが起こる。関係ない場所、足が痛くなったりする。それを防ぐためにノウハウ本が出、便利ページが生まれたりなど需要が発生する。目的は健康になることだが、結局そういう複合的に発生する問題に対処することに時間もお金も消費されることになっていたりする。

ソフトウエアの問題とは、そういう複合問題に近しい感触がある。開発はどう組むかに専念したい。しかし現状は、便利な言語を使ったがゆえの複合問題が多く出てきている。クラスの概念が出ると、確かに仕様通りに組んだり、どんどん派生させたり、積む方向に組むのは非常に楽だが、あとでの修正の際に問題が出る。クラスはコードには見えないインスタンスが生成される。コードだけみても、今ある派生クラス全体のコードはどうなっているのか、selfはどれを指すのか、もうパッと見わからない。ゲームなんてあとでの修正なんかしょっちゅうだしひどいときは基底クラスごと変更になる。もうメインプログラマがヤな顔する修正ばかりになる。

要するに、

今自分が取り組んでいる問題は、本当に自分がやりたいことのための問題なのか?ということである。
消費の恐ろしいところは、
それが自分に必要のないものでも、必要あることのように来訪し、複合問題を発生させ、こちらの時間を占有してしまう。
それが楽しい、というのなら、OK、それは問題がない。

だが、
 なぜ次から次に消費するのか、
と言えば、
 一つ一つに満足してないからではないか。
 あるはずのものがないから、次を求める。

そして、それこそが
消費ビジネスの根幹ループなのではないか。消費の波が去ったあと、自分に何が残ったか。それを欲しいと思った自分は本当は何を求めていたのか。諦めずそれを探す。それこそが人生だ。消費は一時的にその責務を忘れさせてくれるが、その先まで配慮してはくれない。

---
ハードウエアだ、と思ったキッカケは、handmade electronic musicという洋書だった。 音を出すデバイスを自作しよう、という本だが、音の出し方について実に体系的に書いてある。こういうストレートで本質的な本というのは日本ではなかなかお目にかかれないのはなぜだろうと思う。

この本にはDVDが付属していて、実際に実演して見せてくれる。最初に見たのは、スイッチをON/OFFする、というチャプターで、最初は単にオンオフ、次に光コンデンサを使って光でオンオフ、最後には、その光側を高速でオンオフさせ音をビブラートさせる。ぶはは、と笑ってしまった。
オンオフでスピーカーをブブブと振動させるが、そのスイッチ自体をスピーカーに放りこむとずっとダンスする、など、かなりクレイジーである。これらはすべてアナログだ。見て原理が分る。アナログってなんて面白かったんだろう、とルーツを思い出した。こういうストレートな面白さ、この快感、これこそがモノ作りの原動力ではないか!と思ったのだ。


こういったアナログの物理現象をおもちゃとして遊ぶためのデバイス、という構想もかなり前からあって、これもいずれ形にしたいと思っている。



7/25 未来を価値のあるものと交換するのが制作である

ゲーム制作において(あらゆるクリエイティブな行為において)、
最も豊かな時間とは、

 どうなるかわからないが、何かできそうな予感がある時間

である。

これは、今月のBRUTUSでも、「映画制作で一番楽しいときは?」の問いに
宮崎駿氏が
「あれこれアイディアを考えている時間です。制作に入ったらしんどいだけ」
と答えている。


養老孟司さんがたびたび語る言葉に「都市化」がある。

都市とは、先がすべて決まっている。どうなるかすべて決まっていることである、と。

私は制作とかモノ作りにおいて、実は、なるべく先行きがわからないようにする性分があって、それがなんだかずっとわからなかったのだが、今日ふとこれに気付いた。

養老さんは、都市化においてもっとも割を食うのは、女子供である、と説いている。どうなるかわからないものを持っている、女性ならば、生理など自然に近い身体を持ち、子供ならば、この先どうなるかわからない未来を持っている、からであると。

子供は財産も何も持っていない。持っているのは、今後どうなるか決まっていない未来である、と。
都市化によってすべてが決められていくと、子供の財産は目減りしていく、と説いておられた。

つまり、私が、よくわからない状態を保とうとするのは、財産を目減りさせないためなんだな、と思った。

まあ、そもそも、モノ作りにおいて、一つ一つ決めていくというのは未来を失っていくことだ。
つまり、
何も決まっていない素晴らしい予感を、何かしらの具現化した成果物と交換している。

ならば、
その一つ一つの、交換する成果物が素晴らしくなければ、なんのために交換するんだかわからない。

つまり、どうせ交換するならば、価値の高いものと交換したいし、
それが価値が低いなら交換せず
わからないままの方がよっぽどマシ、と言える。

---
だから、
成果物の価値を、
より素晴らしい予感に近づけ乗り越えるために、
その具現化方法をあれこれ模索する、
それが

 「構想」

と呼ばれる時間であり、わからないままにする、という意識である
と思ったのです。




7/28 なぜ職人は怒るのか

山岸涼子さんの漫画「アラベスク」には、

 バレエへの冒涜

という言い回しが出てくる。個人的感情でバレエの精神を汚すのを許さない

冒涜とは、

長い時間をかけて、人々を経て磨かれてきたバレエというフォーマット
を、
間違った形未熟な形で伝えようとする行為、それがバレエというフォーマットに混入するのを防ぐために使われる言葉、
それが冒涜、だ。

長年修行を積んできた寿司職人が、お客に対して怒る。
そんな食べ方するなら帰ってくれ、と。

それに対し、食べ方なんて個人の自由なんだからとやかく言われる筋合いはない、
と思いがちだし私もなんとなくそうだと思っていた。

だが、最近
自分が音楽でもなんでも、
イメージを実現するために技術を磨き、見ず知らずの他人とその場で合わせたり、音響の状態もまったくわからないそういう中で演奏したりする、そういうときに最大限神経を使い、あれこれ配慮してすこしでも良くしようとし尽力を尽くした最後の最後に台無しにされガックリくることが本当によくある。

もちろん自分が目指しているイメージとそのとき相手が目指しているイメージが食い違った交通事故は仕方ないのだが、
その瞬間瞬間、目指している美しい響きや出来上がりに向けて、悪条件の中なんとかにじりよろうとし、また日頃も、そのために準備や鍛錬や修行をしている中、そもそも良くしようとする意志があるのか?と疑わざるをえない時がある。

寿司職人で言えば、シャリの温度からネタの仕入れから状態まで、一番おいしいというイメージが再現できる条件を、長年かけて磨いてきた。それを、いきなりべっちゃあと醤油をかけられては台無しだ。つまり、たかがその寿司いっこでも、一瞬の演奏でも、何十年という汗と涙の結晶であり、それを理解もせずいきなりしょうゆ、これは怒って当然だろう、と思ったのだ。そりゃ怒るよ、と。

---
ただ時代的に
怒るのが難しい時代でもある。怒る側から見ても、怒るにはその前提が要る。その相手が何か持っているならば怒っても大丈夫だ。それが寄り処となり、怒られても持ちこたえることができる。だが、何もない場合は、ただの存在否定になってしまう。

その何かとは何だろうか。

人間悩んだりして苦しい。苦しいというのは、痛みと同じでサインだ。何か自分が求めているものがある。それが今満たされていないから、苦しいというサインが出ている。
赤ちゃんが泣いている。なぜ泣いているかはわからない。おむつが濡れて気持ち悪いのか、おなかが減っているのか、眠いのに寝られないからなのか。その原因はいろいろ試行錯誤してみて、泣き止むのを見るしかない。エラー表示しかないからだ。原因表示がない。

同じく、自分の苦しみも、単にエラー表示しかない。何が苦しみの原因なのか?環境を変え、やることを変え習慣を変え、あらゆる方法を試し錯誤するしかない。そのときにその苦しみを「紛らわして」しまうと、自分の本当の悩みの原因を探求することはできなくなる。そこに消費の甘いワナが大量に用意されているというのが現代なのだ。悩み自体が消費の先鋒として供給されている場合もある。

---
苦しみ、それは自分が求めているものがある、というサイン、
つまり
ゴールがあるということだ。

その苦しみを解消するために何をするか、それが人生において大事なことだとつくづく思う。


このページでは私の成果、発見のみ記述しております。





























































































































































※1
WINDOWSのコピーってファイルが飛んでくアニメーションが楽しい。ウインドウとウインドウを並べて好きな大きさにして。そういう操作自体が時間がちくちくかかるホビーなのだ。ひさびさにSUIで作業すれば、無味乾燥で楽しくないが恐ろしく速いからわかる。それらの功罪を分って選択すべきである


























































※2
以前夕暮れ時の公園に、子供達が集まって携帯ゲームをみんなでうつむいてもくもくとやっている光景をみたら、さすがに、彼らの貴重な時間を占有してまで何を与えているのか、日本の未来は大丈夫か、と思いますよーあれは。。衝撃でした。


※3
実は、画面上下2分割機能はありました。大変失礼。。惜しむらくは、秀丸のようにテキスト全体そのままで真中をズバッと区切ると理想です。ちなみに、XCodeの補間はすさまじく便利。変数なども認識しメソッド名も補助してくれてかなり良し!エミュレータもかなり出来がよい。