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  最終打ち合わせ。 
 会って話すと、空気というものから、提案したものがどうなのか、の微妙なニュアンスがわかる。
 
 私は長年、説明できること、を重んじてきた。相手の意図を聞き出そうとしたり。しかし実は、説明できないけど正しいと判断して動くことが大事なのではないか、と思い始めている。理屈は通らないがそうすべきと確信する衝動を許すことも増えた。特にこれからのビジネスは、どうなるかわからない。やってみるしかないのだ。
 そしてそのときの判断を支える直感は、説明はできないが、やってみてきた成果なのだろう。
 
 なぜ自分が必要とされたのか、これでいいのか、わからないことは沢山あるが、直感に基づき、誠実に実行しベストを尽くすことだけが大事に思う。どうせ問題は起こるのだし、ちゃんと対応できればいいだけだ。直感そのものは「説明によって」ではなく「結果で」納得してもらうのが正しいと「説明できないが」このところ思う。
 
 
 
 バイオコンピュータ、という本を読んでいて、その本には、脳をコンピュータととらえての論が展開されていた。残念ながら脳はプログラム構造で動いてないのだが、その発想にはすごく刺激を受けあれこれ考えて楽しい。
 
 脳はプログラムストア+実行型ではなく、どちらかというと私の考える量子コンピュータに近いように確信している。ノイマン式ではないのだ。。
 
 一般に「こうすれば成功する」という本が多いが、知識は言語化された左脳的思考なので、実行するときはそれを言語化できない右脳的働きに置き換えなくてはいけないが、その方法はいうまでもなく理論で記載することはできない。
 
 現行のノイマン式プログラム言語は左脳的であり、無意識に行動し修正していくタイプの人々を結果的に排除(※1)している上、社会的インフラを支配しつつあるので、大きな偏りが生まれているのは不幸に思う。
 
 プログラム言語が人間の脳に近い構造になれば、右脳系の人たちがプログラム(と呼ばれなくなるだろう)に直接参加できる。このことは人工知能にも大きく寄与するだろうと思う。人間の脳に近いからだ。もちろんゲームや音楽といった分野にも。
 
 若い子が行動するのは、知らないから、である。知ってしまうとつまらないしリスクを考えて動かなくなる。それが人間の経年弊害だ(だからこそ死というリセットが未だに残っている)。現状プログラムするには仕様がすべて知られないといけない。これはすごくつまらないことだ。量子になればまったく見えなくなる。歩くとき、ひざを23度曲げて腰を1.5秒ホールド、とか考えないのに似ている。無意識を保持していく感じになる。
 
 うまくいっている人は理論的に考えていない。ユニクロの柳井さんも著書で「やってみて改善していく」と書いている。
 実は、モノ作りも経営も同じようなものなのかもしれない。ちょっと削ってみて、眺めて、こっちを足してまた眺める。そういった感じがもっと許される言語(?)が、ゲーム制作にすごく欲しいと長年、そのイメージを捜し求めている。それはノイマンではなく、そして脳に近いんだ、というのがこのところの結論。
 
 
 
 タスクが積むことをcueという。筆頭の終わりが見えて嬉しい!
 が、
 終わったら4つほど待ちがあるのだ。。。お待たせして申し訳ありません >関係各位
 
 
 
 好きなテニスマンガ、
 堀内真人氏の「フィフティーン・ラブ」の中で、
 
 スラム街出身のライバル黒人青年が
 
 「俺は左手一本で世界を目指す」
 
 と言っていた。
 
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 良いものを作って世界に打って出る、とは誰もが期待する状態だが、
 単に良いだけでは、世の中に受け入れられるとは限らない。
 
 時流に乗る必要があるのだ。
 
 時流とは識別記号のことで、認識されないなら価値判断以前の話となる。
 
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 時流に左右されない普遍的な識別とは、身体性・生存に関わる要素であり、
 持つべき良さとは、
 そういったファンダメンタルグッドということになる。その上に時流という服を着る。つまりファッションである。
 
 おもえば、ゼビウスは、
 当初、縦スクロール、地上空中撃ち分け、が「営業観点」から決まっていた。名前もダイナブラストではなくゼビウスになる。それらはファッションであったのだ。
 
 返せばつまり、時間をかけて価値を磨く職人系の人は、ファッションに「良さ」を置いてはいけないということになる。ファッションは着こなすものだからだ。
 
 ずっと着ていた服がダサく感じて着れなくなったり、ひさびさに出したらカッコよかったり。ファッションとはそんなもの。
 
 
 
 鳥を見た@渋谷青い部屋大トリ。今回は非常にうまくいった感触。
 
 jazzセッションでもそうなのだが、人と合わせることに慣れてしまうと、相手の意向がふっと消えたときに「ハテ私のやりたいことはなんだろうな?」みたいな状態になる。もちろん自分を出すことは大事なのだが、自分を出すならソロ活動でやればいいんで、せっかく相手とやるなら、一人では生まれない、相手と自分とで何かが生まれることを大事にしたいから「俺が!俺が!」とはやらないが、それが裏目に出る瞬間がある。それが現状の非常に大きな課題。
 
 幸い鳥を見たのリーダーなかおさんは、本番になるとガーッと走る人なので安心できるのだ。
 
 ただ、このところすごく困っているのは、演奏中はとにかく快感を追及するので、演奏後、快感のない現実とのギャップに非常に戸惑うこと。これも課題。しょうがないことだが、なんだかもう、どうしていいかわからないのだ。。
 
 
 
 チェックや入稿も一段落したあと発表もなされ、やっと辺りを見渡せるようになった。ふぃー
 
 不器用なもので、思考モードが占有されてしまうので、他の発想ができなくなっていたが、ようやく思考モードが解放されたところ
 
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 アイディアの出し方というのはあって、
 まず、第一にイメージというものが湧く。イメージとは、もう自分的に猫まっしぐらな状態の予想図のことだが、これは残念ながら、自発的なもので作業的にはできないが、自分をやる気にもっていく部分は作業に落とせるので、まずモチベーションをそちらに向かわせる。
 
 このイメージというのは「欲しい快感」であるので、具体的な絵とかである必要がない。
 スラムダンクとかで、シュートのイメージとか描いてあるが、ジョーダンとかがズバーンとダンクしたカッコよさな快感、と置き換えると判りやすい。
 
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 第二にその快感が出る素材や状況などの組み合わせを総当りで検索する。さきほどのシュートの例ならば、自分の体を使って、ジョーダンな快感が出る動きなり姿勢なりタイミングを探すことになる。アイディアの場合はそれを脳内のみで行う(身体を使っても脳内への入力なので同じことですが)。
 
 この検索も自発的な無意識上で行われるので、脳内の思考が、その組み合わせ検索に従事するような状態に保つことがポイントとなる。
 
 いかに多様な組み合わせを行うか?が大事なため、アイディアが出なくなったのに、机にかじりついたりすることがいかに非効率かよくわかる。組み合わせを増やすためには入力条件や脳内の思考傾向を変える。
 
 このように、
 総当り検索がいかに多くかつ効率的に行われるか?がアイディアを早く浮かばせるコツとなる。
 また同時に、
 何かを見たり聞いたりした時に、いかに多くのリンクを作りながら脳内に格納されるか、も大事な要因となる。リンクが張られていないと、検索に引っかからないからである。リンクが多いと、まったく別ジャンルからの発想が可能となる。
 
 つまり、
 多様にアイディアを発想できる人とは、見聞きしたときの記憶のさせ方に極意があると言っていいのだ。丸憶えなどもってのほか。わかるまで納得するまで、 聞く、調べる、くいさがる。単にこれだけだ。わからないままに絶対にしない。わからないものは決して記憶されないし残らない。
 
 また、ちゃんと調べないで憶えたものは関連する脳内の記憶に誤作動を併発する。判りやすい解に安易に飛びつかず、腑に落ちるまで調べる(自分の中のルールですべてが説明できる状態になるまで解析する)か、脳内検索タスクに追加しておく(「アイディア発想」と「わかるまで追求する」は同じアルゴリズムだ)
 
 
 
 私の師と仰ぐ一人に岡本太郎氏がいる。
 
 彼の著書「今日の芸術」をこのところ読み直しているが、
 
 街でキレイな女性をみかけて、オヤと思うがすぐに忘れてしまう
 芸術はわからないが、ずっと心にひっかかる
 
 というような記載があり、芸術はキレイであってはいけない、と結んでいる。
 
 これを読むと、
 なるほど、私が目指しているのは、多分、ゲームに限らず芸術表現なんだな、と今さら気付いた。
 
 つまり、キレイであってはならない、何かひっかかるものを持て、ということだ。
 
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 ファミコンで、バンゲリングベイというヘリのゲームがあって、
 製作はロードランナーのブローダーバンド社。
 
 ヘリでなんかわからないが攻撃して回るなんてことない全方向シューティングだが、
 十字キーの、左右で回転、上下で前後の速度、という体系により、ちゃんとヘリのホバリングが表現できているし、あちこち攻撃していると母艦が攻撃受けたりする。
 
 この母艦への攻撃というのも、タイマーという感じはなく、ときどき台風が来る、みたいな自然現象的なタイミングで来る。
 
 つまり、どうも、何かある。なんか感じるのだ。
 
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 これはゼビウスのにょきにょきソルもそうだし、地上絵もそうだろう。シオナイトの補給もそうだが、何かあることが子供心ながらに判った。
 
 最近ではPS2のプリンスオブペルシャの時の砂、ゴッドオブウォーなどもそう。最初の特殊攻撃はスローとかね。なんか暗黙のルールがあることが伝わってくる。
 
 そういった「何か」、
 それはマーケティングによって作られるのではなく、しかし現代社会の中で浴びる何かと自身の体験とアンテナで培われてきた「何か」なのだと思う。それらは本人の主義としてあるべき姿として(例えばシムシティーで公園を作ると犯罪が減る、みたいな)ゲームなり音楽なり演劇なりで作ったとき にじみ出てくる。
 
 岡本太郎氏は、芸術は技能(お家元のように長年磨くもの)ではなく、素人ができないといけない、と書いている。素人とは、技能的な素人であるだけで、人は他人に訴え得る潜在力を持っていると。。
 
 今ゲーム業界に限らずプログラミングを必要とする分野は、そういう素人が入りにくい。はじめるだけでもめんどくさい。作るにもいろんなツールがある。使いこなしはもはやお家芸に近しい(長年理不尽?に耐えて習得する)。やりたいことがあってもどれがいいかとか選定するだけで一苦労する。そこに本来表現に割り当てられるべき労力が消費されてしまう。
 
 かつて8ビットパソコンが優れていたな、と痛感するのは、電源を入れ目の前のプログラムリストを入れさえすれば動く、という非常にシンプルかつ明解なデザインであったことだ。先日書いた、量子コンピュータ実現までの間、せめてこういうシンプルさを現代のゲーム製作に統合できないか、いろいろ思案している。もっとゲームで簡単に表現できて然るべきなのだ。オープンソース界隈など個々それぞれの尽力とは別に、全体として枠組みを考える、工業規格JIS、のような何かしらの規格化が要る。でないと下が育たない。
 
 膨大な数の優れたものを試して時間が過ぎる感じは、音楽理論を勉強して一生を終える怖さに似ている。
 やりたいのは理論を憶えることではなく人を感動させる音楽を作りたいだけであるように、ツールや言語を使いこなすことが目的ではなく、なんかどうもひっかかる面白いゲームを作りたいだけなのだ。
 
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 エヴァンゲリオン劇場版「破」は明らかに「何か」あってここ数年の混沌から抜け出た感があったし、マンガも次々と新しい作家が生まれているので楽しい。
 
 せめてマンガのように、敷居が低いが奥が深い、そういうプログラミング(?)が普及して、次々と生まれる新しい発想のゲームをもっと見たい。
 
 このところのゲームは、よくできている、デラックスなものが多い気がする。それらは、その価格を納得させるための、いい訳としてこしらえてあるようにみえてならない。必要性があってのデラックスさではなく、まずデラックス。もちろんファッションとしてのデラックスもあるだろうが味方の被害が大きすぎないか
 
 お客を納得させるために絵をデラックスに装飾しているマンガがあるだろうか。
 
 
 
 
  ブラウザの脆弱性を突いて侵入とかbot突っ込むとかあるのだが、そもそも、たかが閲覧ソフトがどうして書き換え可能なのか、ということだ。ラジオやテレビを使っていて、受信した電波が脆弱性を突いて他の家電がハックされる事態を想像すれば、明らかにおかしな状況なのがよくわかる(笑)(※2) 
 かねてから思っているのだが、アプリケーションはstaticであるべき、ということ。つまり、ROMであるべきだ!(笑
 
 ブラウザなんかもそうだし、photoshopなんかも、買ってきたらパッケージの中に、ブロック状のアプリが入っていて、それを自分のpcにレゴのようにくっつける、みたいな(笑)ドングル用意するならもう全部ブロックにしたらいいんじゃないの?という。
 
 internet explorerだってブロックでいい。
 フリーソフトのための、空のブロックを売っててもいいね。
 
 
 そもそも、
 exeが書き換え可能という状態で放置されていることが以前からナゾでしょうがないのだ。
 OSでファイルを読み込み専用にしたってそれを書き換えるのは難しくない。ウイルスソフトだって、被害が出てからの対応になる。常に後手だ。
 根本的には、物理的な遮断が必要なのだ。なぜ、HDDに外部スイッチをもうけてread onlyにできないのだろう、とも私は思ったりするくらいだ。
 だから、exeをブロック化し、ソフトウエアをハード化してしまうといいな、と思っていたが、
思えば、時代はもうクラウドとかになりつつあるんだよねえ(笑
 
 ただ、先日のApple社による、iPhoneアプリ大量削除に見られるように、
 向こう側(クラウド)は、向こうの都合でカスタマイズされてしまうから、使いやすい環境が常に変化する恐れがあるんだよね。欲しいときにないとか。私の使いやすい道具や服や製品や番組は、もう、すぐに消えるしね(笑)だから私は、こっち側に寄せないと気がすまないケド。
 
 
 
 iPhoneなどで、画面に方向ボタンやトリガーボタンを表示して、それをタッチさせ操作させるゲームがよくあるが、遊んでいて非常にツライ。
 
 数年前にアルスに行ったときに 全画面タッチパッドのフィジカルコントローラ、Lemur(HP) の開発者に実機を見せてもらう機会があった。ボタンを自在にグラフィックで変更できるカメレオンのような操作パッドは未来な感じ(当時は珍しかった)だったが、それまでの期待に反して「どうにも使いづらいな」と感じたことは否めなかった。
 
 実際、私が愛用しているpalm m505なんかでも、ときどき不精してスタイラス(DSでいうペン)を使わず指で操作することがあるが、その操作しづらさに我慢ならず結局スタイラスを引っ張り出してしまう。
 
 今朝起きて気付いたのは、
 これまでのコンシューマゲームの快感は、ソフトだけではなく、実は、
 
 ゲーム機本体の機器であるボタン等をカチカチッと押す快感の恩恵、
 を
 かなり受けていたのではないか、ということだ。
 
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 私がpcを使っていて非常に気にしているのは、キーボードとマウスだ。ここにお金をかけている。肩が凝るのは決定的に、やっすいモノを使ったときだったからだ。
 
 私が長年愛用してきたのは、FUJITSU-OEMのPS2キーボードで、これは見ただけで判るのでジャンクで見つけたら確保し大量に在庫がある。富士通キーボードはFM-7時代から信頼が高い。現状のメインは Microsoftのナチュラルキーボードで、これはepoche開発のとき、海外のプログラマが愛用していて使ってみたら手が追いつかないほど速く打てるので気に入っている。vaioノートGRのキーボードもかなり心地がいい(=負担がない)。
 
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 iPhoneでゲームを作ろうとしたとき、
 たいていは、これまでのゲームの作り方をそのままiPhoneに落とそうとする。
 擬似ボタンを表示し、それを画面タッチし操作させようという試みをする。
 
 しかし、見た目にボタンだと、無意識にもボタンのリアクションを期待してしまう。押した実感だ。しかし連打してもカチッという反応はない。この操作は心理的にも指先にも「鈍痛」を生む。
 
 数年前のCEATECで、社名は忘れてしまったが、画面をタッチすると振動でリアクションを返す技術を出していた会社があってなるほどと思ったが、それもまあリアルなクリック感の代用でしかない。
 
 ただ、「受け付けました」というサインとしては正しい。ボタンの「カチッ」という音には「受け取った、あとは任せてくれ」という安心感がある。タッチだと受け取ったのか受け取ってないのか瞬時にわからない。ノートでもタッチパッドで埒があかないときは下のボタンを押す。macノートでもタッチパッドナナメ下をグリッと押す事態はよくある。
 
 思い返してみれば、どんなゲームをプレイするにしろ、
 アーケードのレバーやボタン、コンシューマの方向キーやボタンなどを、押したり傾けたりしたときの心地よさを、私たちは併せてずっと享受してきていたのではないか、ということだ。
 
 だから、それをiPhone上で期待しても、肝心の機器(ボタン)がないんだから肩透かしを食らう、という状態のような気がするのだ。
 なくなってみてはじめて、
 リアルなボタン機器制作者の影の努力が、見えてきたのではないだろうか。
 
 ゲームの楽しさは、隠れた努力と工夫に支えられていたのだと。
 
 
 
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 | | このページでは私の成果、発見のみ記述しております。 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 ※1
 Webなんかもほとんどが文章で説明しないといけない。行動で受け継がれていく遺伝子は淘汰される傾向にある
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 ※2
 残念ながら近い将来、一部の家電がハックされ、家庭内LANで被害が波及するのは、十分考えられる事態ではある。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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