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日頃の行動をメモ。消しゴムで消して作品へと昇華する前の、日々の下書き。
This is my dairy memo. These will be a work after brush up process. .




    2009.SEP

9/1 ゲームが喰われた

仕事も一段落したし、
かねてから見ようと思っていた、エヴァンゲリオン破、を見に行ってきた。
知り合いが「言えないほど何度も見に行っている」と言っていたことの影響もある

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恐ろしいほどのハイクオリティの映像
風景に落とし込まれた、UCC缶コーヒーやLAWSONが現実よりも美しい

かつて、lainというアニメがスタートさせた(と私は思っている)アニメ内のコンピュータCGメニュー画面、

攻殻機動隊でも普通になった、
ロボットや機体のポリゴンによるアニメーションが、2Dアニメと何の不自然もなく融合していた。ハイクオリティもその必然性がしっかり存在した。ここまで来たんだなあと感じたときに、私に浮かんだのは

 ゲームが喰われた

ということだった。

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本来、ポリゴンによるアニメーションや2Dメニューなどは、ゲームで発展した技術だと思っている。

それらが、
初号機が使徒を喰らうように、
喰われアニメと一体化している


さらに、映画の中で
使徒のATフィールドを侵食し、暴走してまでぐいぐいと押していく感じ

本来ゲームの快感じゃないか。。。

かつての感触が蘇って来たのだった。

今やゲームは、
パワーアップも、コンボも、すべては手段の一つにすぎなくなった。

なんとしてでも倒そう、そのためのパワーアップだったものが、
単なるスコアのため、単なる手段のため
になってしまっている。レンジを超えない、すべて用意され選択をこなしていくものにすぎなくなった

まさに元UPLの故・藤沢勉氏がBEEPのキライだシリーズで非難されていたように、アヒルが道のえさを順番につついていく様そのものだ。

アニメはうごきや音の連動をすべて固定化できる。描写速度の心配もない。機種依存がない(映像になればいいんだから)。 staticなものだからこそ磨きこみの方向がはっきりしている。
これは音楽も同じで、最終的に波形になればいいから機種依存がない(※1)。

しかしゲームは機種依存があり数年で機種が交代するため技術が蓄積していかない。
自分のレスポールのギターを気に入って使いつづけて味を出す、みたいなことが、ゲーム機材では通用しないのだ。「中古ゲーム開発機材屋でさー、見つけたんだけど、この機材使うとイイ味の動きが出せるんだよ」みたいな世界がいーんですが私は(笑)
さらにゲームは、staticでないところ(動きはすべてユーザーの操作に依存し表示や動きを対応できる)に利点があり、ユーザーの操作との融合によって完成形が現われる構造がゆえに、これしかない、という絞込みがアニメに勝てるわけがないのだ。

であれば
ゲームがアニメと異なる点といえば、staticでない、自分がコントロールしている快感、毎回のプレイで異なるが同じ種類の快感を味わえる、というところにしかない。これは構造やルールや表示を抽象化(※2)する、つまりゲームの本来の姿ではないか(※3)、といろいろ考えて気付いた。


実は海外では正反対のことが起きていて、
ハリウッドのCG技術がそのままゲームの世界になだれこんでいる。
3Dになじみのある海外ならではの現象に思う

日本のアニメはここまで進化した。日本のゲームは何をしているのか。
ひさびさに膨大に広がる海に絶句した日だった
動かなければならない


9/3 残像速度

破を映画館に見に行った最大の理由に、

 液晶テレビでは感じることのできないスリル、を味わうため、

というのがあった。

というのも、破に先がけて再放送されたテレビ版のエヴァンゲリオンのオープニングの、すばやいカットの切り替えをひさびさに見たら面白くもなんともなく、なぜなのかいろいろ調べた結果、

 地デジの液晶テレビ、に残る残像、

が意外に原因、ということがわかったので、映画館ならそういうことはないだろう、という読みだったしそれは間違いなかった。

同様の理由で、攻殻機動隊のテレビ放映時のオープニングもすばやいカットの切り替えがあったが、これも液晶テレビでみると面白くもなんともなくなっていた。

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そして今朝。
起きがけに、

 だから私は、携帯ゲーム機本体で遊ばないのだ

と気づいたのだった。

私は、目が覚める前、うとうとしている時間に思考が回り、このときにひらめくことが多い。

私はかねてから、ゲームボーイなど本体で遊ぶことはなく、かならずテレビにつないで遊んでいた(※4)。
なぜか携帯ゲーム機本体で遊ぶ気がせず、それは、画面が小さいからだろう、と思っていたのだが、それは決定的に間違っていた。

液晶の反応の鈍さ、スパッと切り替わらずじわじわする快感のなさがキライだったのだ。

つまり、アクションゲームで遊んでいて感じる快感、それが液晶だと味わうことができないのだ。

仕事で開発していたshootingでも、速度の問題で一時期30フレにしたとたん快感がなくなり、しぶしぶ60フレで処理落ちしないよう技術を駆使しやりくりするハメになったのも、同じ理由なことが今わかる。
液晶はフレーム数が低いのかもしれない。

そういえば先日、N64のバンガイオーの移植?がDSで発売されたとき、早速プレイしてみたら、確かに動きも弾も同じようなのだが、何もないことに愕然とした記憶がある。なんだろうこのつまらなさは、と。。。
その時は画面の小ささかと思っていたが、これも液晶の残像が原因だったことが今ならわかる※5。

バンドでも、演奏におけるミュートというのは非常に大事だ。切り方でまったくニュアンスが変わってしまうからそこの鍛錬がキモになっているし、アニメーションも最後のコマが印象に残る。


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そしてさらに恐ろしいことに気づいて
「わああ!」
と飛び起きてしまった。

今や、テレビはブラウン管から液晶テレビに世代交代しつつある。
パソコンでYouTubeを見るにしても、ノートパソコンは液晶だ。

本来の映像の快感、が完全に再生できない機器がデフォルトになりつつあるのだ。
携帯電話で遊ぶゲームも、液晶の上だ。

つまり、家庭用テレビなどの表示デバイスに依存してきたゲームは、
気づいたらゲーム本来の快感を完全に再生する手足を奪われつつあるのだった。

もちろん見た目には何の問題もないように見える。あたかも、かつてレコードからCDになったとたん「軽くなった」と感じた人がレコードプレイヤーを持ち続けるのと同じことのように感じるだろうし、液晶技術の進歩で徐々に解消していくことなのかもしれないが、
問題は、一般の人たちを、この快感のない状態にさらしつづけることで、私が不満に感じているスリルの快感への追訴が、途切れてしまうことなのだ。事実、携帯電話のゲームが安価に見られているのは、この快感がないからなのではないか。。

実際私は、iPodでYMOのライディーンを聞いたときの冒頭の馬ハイハットの快感のなさ、音のつまらなさに愕然として買うのを辞めたが、普通の人はそれでいいんだろうか。

慣れは恐ろしい。慣れても快感はすっぽり欠けているからつまらなくなる。形骸化、そして遺伝子の途切れ。それを私は恐れるのだ。(※6)

急がなければならない


9/26 化学変化連鎖

以前、まものクエストを2まで作ったあと、

 「3は出ないのか」

とよく言われていた。

編集部気付のたくさんのファンレターもいただいたし(ありがとう)
編集部の方はわざわざ職場のライブ会場までインタビューという形で催促(笑)に来られ、
またコミケでも、今年も、やはり「3は出ないのか」とよく質問された。

では、作ってないのか、といえばそんなことはない。

実は
何度も3を作ろうとして開発をスタートしてはいたのだが、作っているうちにこれはどうもちがう、ということで、
ネイティガになったりデルビンダスになったりしていた。

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私にとってゲームを作るというのは、
マンガ家が、登場人物の性格に従ってストーリーを動くままにするように、
ルールと世界設定によって、追加したさまざまなイベントやアイテムやシステムによって、ゲームそのものを発展させていく過程そのものだ。

最初に「面白そうな」設定なりゲームルールなり動いているイメージがうかび、
それを足がかりに、プロトタイプを作っていく。

しかし、
残念ながら、作ってみても、思ったとおりのものが出来て終わってしまうことがある。

これは、花火で言えば、不発状態なのである。

プロトタイプを作る過程では、MSXの制限の上でイメージを「翻訳」しなければならない。
翻訳、というのは、元の意味を別の表現の仕方で再構築すること、であり、これは芸術の本質そのものだ。

この翻訳という過程を通して、作り手は、自分のやりたいことの本質を発見することになるのだ。

なので、
まものクエスト、というシステムが2ですっかり固まった上に、ソフトウエアとしてイベントを追加したり、セリフを変えたり、敵のグラフィックを変えたりする程度では、それは3にならなかったし、3ではなかった。

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創作とは、パターンの並び替えではなく、
何かが宿り、そして、作るごとに化学変化が発生し、変化が変化を呼ぶ。
それらの爆発連鎖が収束したころ、ゲームが1本完成している。それが私のゲーム制作の基本的な流れである。

これは曲作りもそうで、メロディーだけなら、順列組み合わせだ。でも、ふとした瞬間になにかが宿り、何度聞いても飽きないものが生まれる。

私たちモノ作りの人間は、日々アンテナをめぐらし、自己鍛錬をし、アイディアをつむぎながら、そういう瞬間が訪れるのを「天使待ち」 (※7)しているのだ。


このページでは私の成果、発見のみ記述しております。







































※1
マンガも映像も音楽も、すべて自然界のデータに置き換えられるからこそ、長く残ってきたといえる。再生するための機材はなんでもいいことは最大に有利な点だ





※2
一言で説明できる表現。絵でも単語でも数式でもアルゴリズムでも



※3
これは実は、今進めている「即興演奏の音源化」も同じ問題をはらんでいて象徴的だなあと感じる

































※4
ゲームキューブの、ゲームボーイアダプタもわざわざ買ってプレイしていた










※5
ポリゴンを使ったゲームだと、逆にブラーなどのエフェクトを「残す」方向に表現が移行しているように思う



























※6
そして、快感のないモノに慣れさせるためのデバイスを供給する製造側の責任は重い
















































※7
マンガ「魔方陣グルグル」のあとがきに、著者である衛藤ヒロユキ氏が描いた、あとがきマンガ参照