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朝日新聞1997年10月15日夕刊「オフステージ」より




「上手だとはいわれたくない」 舞台の幕間で(3)
渡辺 徹

芝居のけいこをしていて、うまくいかない時は、他人のせいにすることにしている。誤解を招く言い方だが、その方が問題点がはっきりするからだ。

何だかせりふが言いにくい。そんな時「力不足」と自分を責め始めたら、けいこは停滞する。もちろん十分考え、吟味する。それでもやりにくいと思ったら、相手役にせりふを言う位置を変えてもらう。お互いの向きを見直すというように問題を外に出すと、事態は前進する。文学座の大先輩、杉村春子さんや、北村和夫さんのけいこを見ていて学んだことだ。

けいこ場の密室性からか、内へ内へとこもる俳優が多い。でも、すべてを自分のせいにしたら芝居は自分の器より大きくならない。「努力したけれど、僕にできるのはここまでです。ごめんなさい」なんていう芝居を見せるのはお客さんに失礼だ。問題を能動的に塗りつぶしてゆくのがプロの態度。劇団というのは、そういう問題解決がしやすい所だ。

俳優は「演技が巧みだ」と感心してもらうためにいるわけではない。芝居の内容に共感してもらったり、感動してもらったりするために演じるのだ。舞台になんだかおもしろくない俳優がいたら、たぶんその人は「人にへただと思われたくない」と考えながらやっているのだと思う。

新劇のあり方として正しいかそうかは分からないが、僕は「この人に見てほしい」という相手のために芝居のできる人が「いい役者」なのではないかと考えている。個人的な事情は、演技のベクトルをはっきりさせる。観客だって、暗い客席で、それぞれの個人的事情を抱きながら、たった一人で舞台に向き合っているのだから、「個人と個人」を意識すべきだと思うのだ。「みんなのために」という最大公約数的な演技では、結局何もかわらない。

「この芝居のベクトルは嫌い」という観客もいるだろう。でも、そうはっきり感じてもらえれば、それはそれで、いいことだ。「上手ですね」とほめられるより、時には「嫌いだ」と言ってもらえる「いい役者」になりたいと、僕は思っている。(俳優)